正倉院と隠密

 

春分も近づき、そろそろ桜前線が気になる季節になってきました。三寒四温の時期は体調を調える為に細胞まるごとリフレッシュ、を心がけると良いですね。寒い間縮こまっていた心と体をのびのびとストレッチできるように、今朝のお茶はモーニングにいたしましょう。モーニングに入っているのは前回お話したスペインリコリスですが、今回は東洋のリコリス、ウラル甘草(別名東北甘草、学名glycyrrhiza uralensis)にまつわるお話。お茶を待つ間、ちょっとお付き合いください。

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マメ科の多年草であるウラルカンゾウは、中央アジアから中国西北部、モンゴル、中国東北部の乾燥地帯に自生しています。中国でもカンゾウ(甘草)、天草と呼ばれていて薬としての歴史は古く、紀元前2世紀頃の薬物解説書『神農本草書』や治療法テキスト『傷寒論』に鎮痙・鎮痛・鎮咳・去痰・解毒などに処方されています。また、他の薬の副作用を抑える効果から、なんと7割以上の漢方薬に配合されてきました。

現在も安中散、四君子湯、十全大補湯、人参湯といった有名な漢方薬のほとんどに配合されています。芍薬甘草湯という漢方薬は、女性特有の病気の治療にも多く使われていますが、救急病院にも常備されるほど筋肉のツレや痙攣に即効性があります。                                                       一方、のどの痛みや咳止め、肺炎に処方される「甘草湯」は、漢方薬としては珍しく甘草が単独で使われていて、外用薬としても痔の炎症には直接患部に薬液を塗布するとよい、とあります。

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日本には奈良時代に伝来し、10世紀の書物には「甘草」という漢名に対し「阿末岐」「阿万木」(アマキ)という和名がつけられていたことがわかります。我が国最古の甘草は正倉院の北倉99番に香薬の1つとして現存しています。

正倉院とはもともと東大寺の倉庫で、確かな建造年は不明ですが紀元759年以前であることはわかっています。収蔵されている宝物は、光明皇后が夫である聖武天皇崩御の四十九日に東大寺に奉献した品々です。宝物には「夫の遺愛の品が目に入ると幸せな思い出が蘇って泣き崩れてしまいます」という書が添えられていたそうで、きっと仲睦まじい二人だったのでしょう。思わずまだ飾りっぱなしのお雛様の姿に重なりました。

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さすが当時の奈良はシルクロード東の終点と呼ばれた日本の都、正倉院の収蔵宝物の中には、唐や新羅、東南アジア、果ては地中海沿岸から渡ってきた、世界最高の文化と技術の粋を集めた美術工芸品650点と、貴重な薬物六十種が含まれています。というのも、聖武天皇は体が弱かった為、海外から植物、動物、鉱物を原料とした貴重な薬物が数多く取り寄せられていたのです。これら薬物の名前と用法を綿密に記載した「種々薬帳」に載る60種のうち、甘草を含む約40種類の薬がほとんど変質することなく正倉院に現存しており、貴重な資料となっています。

また種々薬帳の巻末には、「献納した薬物は病に苦しんでいる人のために使って下さい。この世から万病がなくなり、すべての人が痛みや苦しみから救われ、幼い子供が亡くなりませんように」という皇后の願文がしたためられてあり、実際に光明皇后は人々を救うために施薬院を設置しています。正倉院の出庫記録によれば、この施薬院で桂心、甘草、人参、大黄の4種類の薬が最も多く使われていたことがわかっています。

平安時代に常陸、陸奥、出羽国から朝廷への献上品に含まれていたという記録が「延喜式」(当時の法令マニュアル本)にあるので、その頃から東北地方で栽培されていたのではないかといわれています。

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時は天下泰平、八代将軍吉宗の時代、医療が一般民衆にも普及するに従って薬草木の需要が増え、すっかり中国からの輸入に頼っていた為、莫大な金銀が流出します。輸入だけに依存してはいられない、と吉宗は幕府主導で薬種栽培の体制を整えます。

吉宗は、まず海外から入手した植物を移植栽培し、生きた図鑑、見本園となる幕府直轄の『御薬園』を充実させます。そしてその見本と同じ、または代替となる自生植物を見つけてくるのが、「採薬師」と呼ばれる人達でした。採薬師制度は奈良時代から続いていて、当時は大陸から来た薬草に詳しい人達がその役目を担っていたのですが、吉宗は「採薬師」を将軍直々の特命係『御薬草御用係』として抱えていました。

採薬師達は、日本全国歩き回って自生植物を探索し、見つけてきた植物は御薬園に移植され、増産のための栽培研究をします。見本の輸入植物と全く同種属の植物が日本に自生しているとは限りませんので、良く似た代用植物が採集されたこともありました。それでも植物学的にはかなり近縁の植物が採集されていたことは驚くべきことです。      御薬園の見本は探索の見本になる以外、もう一つ役目がありました。当時、幕府は財政が逼迫していた全国の各藩に、財政再建を目指すために高価で取引される薬草の栽培を推奨しました。これで幕府も輸入超過を防げるし、各藩も潤う、一挙両得!といいたいところですが、世間に多くの薬種が出回ると、偽物も多く出回るのが常。偽物を取り締まる為にも本物を維持しておく必要がありました。

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余談ですが、江戸時代の特命『御薬草御用係』は御庭番とも呼ばれました。御庭番といえばご存知、隠密。時には薬の採集の為に全国各地を歩き、時には薬草園で薬草の研究に精を出すという表の顔を持ちながら、秘かに忍びの者として幕府の為に様々なことを探るというの裏の顔をもつ採薬師…忍者が薬草や毒薬にも詳しいことを考えると、なるほど納得です。彼らが残した『採薬記』には薬用となる動植鉱物のみならず、各地の自然、科学、文化、風習にいかに精通していかが覗えます。例えば現在の岩手県釜石近くで日本初の磁石を発見したのも採薬使でした。

そんな想像を膨らませてくれるのが『薬種御庭番』(高田在子著 青松書院)と、『採薬使佐平次』シリーズ(平谷美紀著 角川文庫)です。江戸時代にタイムスリップして、ちょっとミステリーな旅を楽しんでみませんか。

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さて、江戸最大の幕府直轄御薬園といえば小石川御薬園。現在の、文京区白山3丁目にある小石川植物園で、東京大学大学院理学系研究科附属植物園にされています。

この敷地はもともと館林藩下屋敷で、幼い藩主、松平徳松が住む白山御殿がありました。 徳松があの「五代将軍綱吉」となった後、敷地の一部に薬園が造られ「小石川御薬園」と呼ばれるようになります。その後、八代将軍吉宗が白山御殿の敷地全体を御薬園として拡大し、先述の通り見本園として機能していました。同時に園内で栽培した薬草は「乾薬場」と呼ばれる小屋で乾燥させ、調剤もされていました。

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暴れん坊将軍と呼ばれた八代将軍徳川吉宗と、名奉行大岡越前と呼ばれた大岡忠相、といえば庶民ファーストの市政改革を多く行った江戸時代最高の行政コンビですが、小石川にまつわる成果を残しています。

 

 

1722年、小石川伝通院の町医師である小川笙船(赤ひげ先生)が目安箱に「貧困対策として無料の医療施設の設立を」と投書すると、吉宗は忠相と相談の上、翌年にこの小石川御薬園の敷地内に施薬院(養生所)を設立させ、貧しくても治療が受けられるシステムを作りました。

また、園内には青木昆陽(通称甘藷先生)の碑があります。これは昆陽の提言「飢饉の時に命をつなぐ食料となるサツマイモの栽培を」を受理した吉宗&忠相ペアが栽培研究を命じ、小石川御薬園(他、千葉の2か所)で栽培に成功させた記念です。その後全国にサツマイモ栽培は広まり、多くの人を救うことになりました。おまけに「栗(九里)より(四里)うまい十三里」、江戸から十三里にあたる川越のサツマイモが美味しいと、焼き芋は江戸一番の人気スイーツになり。そしてサツマイモは便秘解消に一役買って江戸女性の美肌に貢献したということです。

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さて甘草の栽培のお話に戻りましょう。江戸時代の甘草栽培で最も重要な地だったのが甲州です。始まりは1525年、武田信虎が派遣した僧が明国から甘草を持ち帰り、信虎に献上した種株を植えた、という記録が残されています。過去の記述を頼りに、1720年、採薬使である丹羽正伯が塩山塩山上於曽の高野家の屋敷内の茶畑に生えていた10本の甘草を発見します。見分の結果、高野家は幕府御用として甘草の栽培と管理を命ぜられました。年貢諸役を免除されるかわりに、収穫した甘草は幕府への上納と、小石川御薬園に栽培株の供給を行うことになりました。もともとこの地で有力な農家であった高野家は「甘草屋敷」と呼ばれるようになりました。

実はその甘草屋敷には『消えた甘草の謎』が残されています。1723年(享保8年)10月駒場御薬園の園監だった採薬師、植村政勝(通称:左平次、吉宗お気に入りの御庭番で正真正銘の隠密)が、高野家に立ち寄った際、栽培されていた甘草を全て掘り起こして持ち帰ってしまったというのです。そのとき高野家に残された甘草はたった3本!なぜ幕府から栽培と管理を拝命していた高野家の甘草が持ち去られたのか?

以下いろいろな資料から推理すると、高野さん宅で栽培する甘草は 小石川御薬園用の苗と幕府御用達用の薬種として納める契約だった。ところが隠密植村佐平次は、高野さんにおことわりもなく掘り起こした甘草を自分が管理する駒場の御薬園や私製の下総小金野薬園に植えてしまった。ということの様です。だとすれば公務員の業務上横領ですか?いやいや、そこは吉宗お気に入りだった佐平次、事件は隠蔽されたようです。いつの世も同じです。

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さて漢方薬として二千年以上も八面六臂の活躍をしてきた甘草、現在、生薬としてだけでなく、日常生活に広く使われています。

薬としては甘草の有効成分グリチルリチンから作った製剤が肝機能異常から皮膚炎、関節炎、気管支炎、胃潰瘍など炎症全般の治療薬や、口内炎の薬、目薬などの薬剤に含まれています。

またドラッグストアの棚の市販薬、石鹸、歯磨き粉、シャンプー、育毛剤クレアラシルといった医薬部外品の薬用スキンケア製品や一般化粧品にもの配合され、現在最も汎用されている成分といえます。

さらに近年では、グリチルリチン以外の有効成分、フラボノイドはメラニン生成を抑え、肌荒れ予防効果が、グラブリジンという成分は消炎作用や美白作用がある、と化粧品業界でも注目の成分となっています。

さらにさらに食品にも「グリチルリチン」「リコリス抽出物」または「甘草抽出物」の表示で、醤油、味噌、練り製品、つくだ煮、漬物、ドレッシング、ソース、からスィーツやソフトドリンクといったどこの家の冷蔵庫にもありそうな食材に甘味料として使われています。きっとこの甘さ、とても身近にあって気付かないうちに誰もが日常的に口にしているはずです。

ただし甘草抽出物(高濃度のサプリメント)や甘草の長期にわたる大量摂取は高血圧や浮腫み、筋肉障害といった副作用の危険があります。特に妊娠中、授乳中、高血圧、心臓など循環器系の病気、肝臓病、腎臓病、甲状腺の病気がある方は服用に注意が必要です。

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このように平成の日本で大量使われる甘草のほぼすべてが輸入品です。ほとんどが中国の砂漠地帯に自生する甘草で、乱獲による絶滅、砂漠化による黄砂が問題になってきたうえ、中国国内需要も増加してきているので輸出制限をする傾向がでてきました。そこで現在再び甘草の国産化が急務となってきました。

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21世紀に入ると国内での甘草栽培試験が各地で始まり、ここ数年製薬会社だけでなく、様々な企業がぞくぞくと甘草栽培に参入しています。例えばゼネコンの鹿島建設や三菱樹脂、佐賀県玄海町と九州大学の共同開発、また青森県、宮城県、新潟県、島根県、熊本県などでも特殊な栽培法が開発されています。宮城県岩沼市はNPOが中心となって津波被災地での甘草栽培に取り組んでいます。つい最近では製紙業で有名な王子ホールディングスも北海道で甘草栽培に乗り出しています。

そして元祖甘草栽培の地である甲州市でもその気運が高まってきました。旧高野家では例の佐平次持ち去り事件によってたった3本になってしまった苗を、享保13年(1729年)まで77本まで増やし、明治5年まで「甘草持主」として栽培を続けたそうです。しかしその後甘草栽培は途絶え、昭和初年の調査ではたった数本の株がぶどう畑で、平成2年の調査ではキウイ棚の下に数本生えていただけだといいます。

平成23年、ようやく甲州市はこの歴史的な意義をもつ甘草屋敷を中心に、甘草栽培で市を盛り上げようと動きだし、新日本製薬と共同で栽培研究に乗り出したそうです。

こうして各地で順調に栽培が成功していけば、数年後には国内産甘草で国内需要の全量を賄ったうえに、中国への輸出もできる日がくるかもしれません。

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余談ですが旧高野家(山梨県甲府市、JR塩山駅正面)はもともと有力な農家で、そのお屋敷は甲州民家特有の見事な日本建築です。江戸時代後期に建てられた主屋のほか付属建物や井戸や池、石橋から門にいたるまですべてが、1953年に国の重要文化財に指定されています。三階建ての上層階は甘草の乾燥部屋に使われ、採光と通風の為の突き上げ屋根は、この地方で盛んだった養蚕に合わせた建築形式だそうです。

今年もこの甘草屋敷を中心に「甲州市えんざん桃源郷 ひな飾りと桃の花まつり」が開催されています。(2017年は2月11日~4月18日開催中)の貴重な雛飾りや、桃のお花見が楽しめるそうです。

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そろそろ陽気も良くなってきます。ちょっと塩山まで桃を見に行くのも良し、また小石川植物園に植わった30種類以上の桜を愛でるも良し、甘草栽培に思いを馳せながらお花見、というのもいかがでしょう。小石川植物園近くの播磨坂の桜並木も見事です。

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日本には「甘草の丸呑み」という慣用句があります。甘草の根だってよく噛みしめてみなくては甘さがわからないところから、物事の本当の意味をわかろうとしないという意味だそうです。あまり使われていないこの慣用句、もしよかったら覚えておいてください。